初心者用 くりっく365基本知識
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値洗い
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不動産投資の長男として生まれる。天保9年(1838年)床机廻に抜擢され、同13年(1842年)藩校弘道館の舎長に任じられる。天保15年(1844年)、門閥派により弘道館教授頭会沢正志斎が罷免されるとそれに抗議して舎長を辞任、謹慎を命じられる。弘化3年(1846年)藩主徳川斉昭の雪冤運動に加わり処罰された。安政4年(1857年)、格式馬廻組列・軍用掛見習となる。
安政5年(1858年)10月、強圧的に幕府の実権を握る大老井伊直弼に対する諸藩の決起を促すため、住谷は大胡聿蔵らと共に土佐藩・宇和島藩・薩摩藩へ遊説に向った。11月17日、土佐の立川関に到着し奥宮猪惣次と坂本龍馬に連絡を取り土佐入国の協力を求める。奥宮からは協力は難しいとの返事が来たが、23日、龍馬が立川の宿屋を訪れた。住谷は龍馬と会談し、遊説の目的を論じて土佐入国の協力を要請した。龍馬は協力を約束して去ったが、その後龍馬からの連絡は無く、住谷らは宇和島へ向った。住谷はこの時の龍馬の印象を「すこぶる愛すべき人物也」「誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らず」と記している。
ワラント、宇和島に至り藩士金子孝太郎と面会するが、藩主伊達宗城が幕府から謹慎処分を受けており幕府を刺激する事を恐れた宇和島藩では協力を拒んだ。住谷らは時勢が不利に動いている事を悟り、薩摩行きを断念、失意のうちに江戸へ戻った。
安政6年(1859年)11月、安政の大獄に伴い住谷も職を免ぜられ蟄居処分を受けた。翌安政7年(1860年)2月、高橋多一郎らを中心とする大老井伊直弼の暗殺計画が藩に察知されると、住谷はその一味として投獄され禄を奪われた。3月3日に同志が井伊暗殺を実行し(桜田門外の変)、この変の後、幕府は水戸藩に対する弾圧を弱め、10月に住谷は罰を解かれている。
くりっく365、住谷は原市之進、宇都宮藩士大橋訥庵らと老中安藤信正暗殺を計画する。同年10月、水長の盟約(成破盟約・丙辰丸の盟約)に基づき長州藩士周布政之助・桂小五郎に手紙を送り、安藤暗殺の援助を要請した。長州藩側では藩内の事情から決行の延期を求めたが、機を逸する事を恐れた水戸藩士らによって翌年正月に計画は実行されたものの安藤暗殺は失敗する(坂下門外の変)。住谷は禁固に処されるが、赦免され藩政に復帰した。文久2年(1862年)閏8月には清河八郎に依頼され、松平春嶽への上書を間崎哲馬に届けている。
文久3年(1863年)、藩主に随従して上京し、水戸藩京都警衛指揮役に任じられ本圀寺に入る。同年1月27日には京都東山の翠紅館において行われた、水戸藩・長州藩・土佐藩などの尊攘派志士による将軍上洛に関する会合に参加している。
外為、藤田東湖ら亡き後の水戸藩の尊王攘夷思想の中心的人物と見られていた住谷は、公卿らとも交際し、土佐藩主山内容堂に招かれ時勢を談じたりしている。しかし、住谷は公武合体を容認していたことから、勤王派志士から敵視されるようになり、慶応3年(1867年)6月13日宵、鴨川東岸松原河原において土佐藩士山本旗郎らによって斬殺された。享年50。維新後贈正五位。
なお、明治3年(1870年)、東京神田において住谷の息子らが山本を殺害、仇討ちを遂げている。
寛政10年(1798年)に鵜飼真教の次男として生まれ、後に叔父・知盛の養子になった。水戸藩主・徳川斉昭に仕え、水戸藩の京都留守居役を務めた。安政5年(1858年)に戊午の密勅が下ると、それを子の鵜飼幸吉に託して江戸の水戸藩邸にあった徳川斉昭のもとに運ばせた。ところが後にこの密勅が露見し、さらに水戸藩の家老・安島帯刀に宛てた井伊直弼暗殺計画の密書までもが江戸幕府に露見してしまい、吉左衛門は危険人物として井伊直弼が開始した安政の大獄において、安島や子の幸吉と共に捕縛され、安政6年(1859年)に死罪に処されたのである。享年62。
水戸藩士・高橋諸往の長男として生まれる。藤田幽谷の門弟国友善菴や藤田東湖に学び、尊王攘夷論に傾倒。改革派屈指の秀才と言われる。天保10年(1839年)、家督を継ぐ。藩主徳川斉昭に抜擢され床几回組に属する。天保12年(1841年)、藩主の側近である奥右筆に任命される。
外為に斉昭が幕府から隠退・謹慎処分を受けると、高橋は江戸へ上り幕府に対し斉昭の免罪を運動した。しかし門閥派によって嘉永元年(1848年)7月に蟄居に処せられる。嘉永2年(1849年)3月に斉昭が許されると高橋も復職。安政2年(1855年)、北郡奉行となり、農兵の組織や郷校の建設に携わる。12月に奥右筆頭取に進み、改革派の中心人物となる。
安政5年(1858年)、将軍継嗣問題・日米修好通商条約問題で大老・井伊直弼と対立した斉昭が蟄居を命じられると、水戸藩の改革派は朝廷工作を行い、8月に戊午の密勅が下され、高橋は密勅の写しを江戸から水戸に届ける。高橋は金子孫二郎らとともに密勅に基づく国政改革を志し、安政の大獄で水戸藩への弾圧を強める井伊大老を倒すため諸藩の連携を画策し、住谷寅之介、関鉄之介らを土佐藩や長州藩などに派遣する。
安政6年(1859年)、斉昭が幕府から永蟄居処分を受け、水戸藩に対し密勅の返還が命じられると、高橋は強硬に不返論を主張して会沢正志斎らと対立し蟄居させられる。この頃から密かに金子孫二郎や薩摩藩士有村雄助らと共に井伊大老暗殺を計画し、関鉄之介らを組織する。同時に高橋は密勅が江戸へ運ばれるのを防ぐため急進派藩士らを指揮して水戸街道の長岡宿(現・東茨城郡茨城町)に屯集させた。これを危険視した幕府では水戸藩に屯集者の解散を命じ、捕縛される事を察した高橋は脱藩する。
井伊大老暗殺計画では、江戸での井伊暗殺と同時に薩摩藩兵が上京し大阪から京都に入り朝廷を守護する事になっていた。高橋はこの薩摩藩士と合流するため息子・荘左衛門らと共に大坂へ向った。
安政7年(1860年)3月3日、関鉄之介らが江戸城桜田門外で井伊大老暗殺に成功したが、薩摩藩は動かず京坂での挙兵計画は頓挫する。大坂に潜伏した高橋は井伊暗殺成功を知り、薩摩藩兵の上京を待っていたが、潜伏地を幕吏に探知され、四天王寺境内の寺役人小川欣司兵衛宅にて息子・荘左衛門と共に自刃した。享年47。
辞世の句は「鳥が鳴く あづま健夫の まごころは 鹿島の里の あなたとぞ知れ」。維新後贈正四位。墓所は大阪市天王寺区所在の四天王寺と水戸市所在の常磐共有墓地。
常陸国那珂郡本米崎村(現・茨城県那珂市)の三嶋神社の神官の家に四男として生まれた。20歳の頃、水戸に出て剣術と砲術を学んだ。佐野竹之介と親しく交わり、高橋多一郎や斎藤監物らの影響を受けた。安政5年(1858年)に勅書問題が起こると江戸に向かい、翌安政6年(1859年)に幕府から勅書返納の命令が出ると長岡(現・茨城県東茨城郡茨城町)に屯集して返納されるのを防ごうとした。安政7年(1860年)には大老井伊直弼要撃の謀議に加わり、同年2月21日に脱藩して江戸に潜伏。同年3月3日、桜田門外の変に至った。その後、那珂郡小野田村(現・茨城県常陸大宮市)の高野家に隠れ、さらに会津や越後に潜んだ。文久3年(1863年)には藩政が回復したため、家に戻り、明治維新後、警視庁や県庁などに勤務した。退職後に水戸の自宅で没した。享年76。
水戸藩士・関新兵衛昌克の子として、水戸上町馬喰町片町(現在の茨城県水戸市栄町2丁目付近)に生まれた。弘道館で学び、水戸学の影響を受けて尊王攘夷運動に乗り出した。安政2年(1855年)北郡奉行所与力となり、翌安政3年(1856年)2月、郡奉行高橋多一郎に認められて北郡務方に抜擢され、大子郷校の建設と農兵の組織を行いながら水戸藩改革派の拡大を進めた。安政5年(1858年)10月、高橋の指示により、大老井伊直弼に対する諸藩の決起を促すため、関は矢野長九郎らと共に越前藩・鳥取藩・長州藩へ遊説に赴く。しかし安政の大獄による尊王攘夷派志士に対する弾圧が行われはじめていたため、十分な成果を上げられずに江戸へ戻った。安政の大獄が更に進行すると、高橋多一郎・金子孫二郎らを中心とした大老井伊直弼の暗殺計画に参加する。安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変で実行隊長として襲撃を指揮し、大老井伊直弼を暗殺した。その後、薩摩藩などを頼って近畿・四国方面の各地を逃げ回ったが受け入れられず水戸藩領へ向い、文久元年(1861年)7月9日に袋田(現在の久慈郡大子町)に入って桜岡家にかくまわれた。しかしそれでも危険が迫り、水戸藩領内を転々と潜伏した後、越後へと逃れたが湯沢温泉で遂に捕らえられた。水戸で投獄された後、江戸送りとなって、文久2年(1862年)5月11日に日本橋小伝馬町の牢において斬首された。享年39。維新後贈従四位。墓所は常磐共有墓地(茨城県水戸市)と、小塚原回向院(東京都荒川区)。