初心者用 くりっく365基本知識
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ポジション
売買を行った後、決済を行っていない通貨や数量などの状況のことです。売っている状況を売りポジション、買っている状況を買いポジションといいます。
たとえば、ドルを1万ドル売っている場合は、ドルの売りポジションを1万ドル分保有していることになります。
資産運用として、水戸城下の田見小路(現在の茨城県水戸市北見町)に生まれた。母は水戸藩士佐野盛章の娘。青山延寿は末弟。江戸の彰考館雇から水戸の彰考館総裁代役、小姓頭、弘道館教授頭取と出世し、最後は大学中博士となった。弘化3年(1846年)からは水戸の彰考館に勤務したが、この時、国史編修頭取として『大日本史』校訂作業に尽力した。また、嘉永2年(1849年)の本紀・列伝の出版に際しては、前藩主徳川斉昭の跋文を代作した。藩政末期、天狗党・諸生党の抗争の激化に際しては、人心を鎮めなだめることに奔走したとされる。学問では史学と文学に優れていた。
庄屋豊田信卿の次男として、久慈郡坂之上村(現在の茨城県常陸太田市)に生まれる。幼年時より漢詩を誦すなど、早くからその才を広く知られ、14歳のとき、青藍舎に入門して藤田幽谷の門人となった。翌年、幽谷の子・藤田東湖とともに江戸に出て、亀田鵬斎・太田錦城に儒学を学び、岡田十松に剣術を学んだ。文政3年(1820年)に彰考館見習いとなり『大日本史』編纂事業に携わった。19歳のときに『禦虜対』を著したが、その名声は江戸彰考館まで広まったとされる。文政10年(1827年)、「不心得」との理由で郷里にて蟄居させられたが、盟友・藤田東湖の計らいで水戸藩主徳川斉昭に認められたという。
外国為替証拠金取引に大門村(現在の茨城県常陸太田市)の黒羽資満の次女万と結婚し、翌天保4年(1833年)に『中興新書』を著して藩主徳川斉昭に上呈し、藩政改革の成否は人材登用にあると訴えた。天保12年(1841年)、再び彰考館に入って『大日本史』編纂事業に従事した。翌年、『仏事志』を著したが、わずか80日間で書き上げて注目された。ペリー来航後は、常に西洋諸国の脅威と警戒の重要性を説き、斉昭の攘夷論・海防論に学者としての知的裏付けをした。安政3年(1856年)、彰考館総裁に就任し、『大日本史』の志・表の編纂を主宰した。「食貨志」「兵志」「刑法志」を脱稿したが、完成を見ないまま病没した。
せっかちで議論好き、痩身で眼光が炯々としていた父・延于とは外見も性格もまったく対照的であった。大兵肥満で慎重かつ温厚な性格、人と争うことを好まず、一見ぼーっとした感じでつかまえどころがなく、水戸を訪れ会見した吉田松陰からは「蒟蒻(コンニャク)党」と評されている。藤田東湖とはほぼ同世代の友人であったが、藩内の派閥抗争からは距離を保ち、弘道館の中では東湖が政治・政論の側面を代表する一方、延光は学問研究の側面を代表する存在であった。またその性格から藩主斉昭により反対派への宥め役として用いられることも多かったという。弟・延寿は兄である延光を「韜晦の名人だ。あんな人を食った人はいない」と述べている。
水戸藩士川瀬教徳の第2子として生まれ、水戸藩士・金子能久の養子となった。文政12年(1829年)、水戸藩主継嗣問題が起こると、父教徳らとともに徳川斉昭を擁立した。徳川斉昭が藩主になると、その下で郡奉行となった。弘化元年(1844年)、天保の改革推進中の徳川斉昭が隠居謹慎の幕命を受けると、雪冤運動に奔走して禁固刑に処せられた。徳川斉昭が政界復帰を果たすと、それとともに孫二郎も復帰し、再び郡奉行となって安政の改革を進めた。民政に手腕を発揮し、郡奉行吉成信貞らとともに徳川斉昭を助けた。
投資信託に勅書問題が起こると、勅書返納に反対して奔走したが失敗に終わった。翌6年(1859年)に安政の大獄が起こると、かねてから計画していた大老・井伊直弼要撃を企て、高橋多一郎・関鉄之介らとともに脱藩して江戸や京都に潜伏し、安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変を起こすに至った。孫二郎自身は、直接参加しなかったが、成功の知らせを受けて薩摩藩士有村雄介とともに大坂で後挙を謀ろうとしたが、伏見で捕らえられ、江戸に送られて斬罪に処せられた。
江戸城内の田安邸に生まれる。中根雪江に教育を受け、天保9年(1838年)に斉善が死去すると11歳で藩主となる。同年、元服。将軍徳川家慶の一字を賜り、慶永と名乗る。正四位下、左近衛権少将・越前守に叙任。中根や由利公正、橋本左内らに補佐され、洋楽所の設置や軍制改革などの藩政改革を行う。嘉永4年(1851年)左近衛権中将。嘉永6年(1853年)アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が来航して通商を求めた際には、水戸徳川家の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬とともに海防強化や攘夷を主張するが、老中の阿部正弘らと交流して開国派に転じる。
日経225の将軍後継問題では、橋本左内を京都に派遣して運動させ、一橋徳川家当主の一橋慶喜(後の徳川慶喜)を後押しする。幕閣では将軍後継問題で紀州徳川家の徳川慶福(後の徳川家茂)を推す南紀派で彦根藩主の井伊直弼が大老となり、14代将軍後継は慶福に決定する。幕府が朝廷の勅許無しでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると春嶽は徳川斉昭らとともに登城をして抗議し、不時登城の罪を問われて謹慎処分を下され、また左内は処刑される(安政の大獄)。
井伊直弼は桜田門外の変で暗殺され、春嶽は文久2年(1862年)に幕政への参加を許される。
FXでは島津斉彬の死後、弟の島津久光が兵を率いて京都へ上洛し、政局に積極的に関わっており、久光は勅使の大原重徳とともに江戸へ下り、慶喜将軍後見職就任や春嶽の政事総裁職就任を求める。7月9日、春嶽は新設の政事総裁職に就任し、慶喜とともに京都守護職の設置、会津藩主松平容保の守護職就任、将軍の上洛など公武合体政策を推進する(→文久の改革)。春嶽は熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎え、藩政改革や幕政改革にあたって彼の意見を重用した。翌文久3年(1863年)には上洛するが、京都では長州藩など尊皇攘夷派が強く、慶喜が尊攘派と妥協しようとすると反対して3月2日に総裁職を辞任する。会津藩と薩摩藩が協力した八月十八日の政変で長州藩が追放され、禁門の変で長州が失脚すると参預となる(→参預会議)。
元治元年(1864年)2月15日には軍事総裁職に転じた容保に替わり京都守護職に就任し、翌日、越前守から大蔵大輔に転任する。しかし、4月7日には京都守護職の任を免ぜられる。
慶応3年(1867年)には、島津久光や前土佐藩主の山内豊信(容堂)、宇和島藩主・伊達宗城らと四侯会議を開き、朝敵となった長州の処分について話し合い、春嶽は長州征伐には反対するが、2次に渡る長州征伐に至る。12月9日の王政復古の宣言の前日、朝廷より議定に任命される。
福井藩士時代に横井小楠の殖産興業策に触発、経済調査を行い財政に窮した藩の建て直しに力を振るった。藩主松平慶永が幕府政事総裁職に就任すると、側用人として長州征伐不支持と薩摩・長州など雄藩との提携を主張。しかし、藩論の支持を得られず蟄居・謹慎を命じられた。謹慎中に坂本龍馬の来訪を受け、財政再建の手腕を買われて明治新政府への参画を求められている。
王政復古後に参与職となり戊辰戦争を戦っていた新政府の財政問題を担当する傍ら、五箇条の御誓文の起草にも参画する。明治4年(1871年)に第4代東京府知事に任命され、庁内の人員整理などを行う。翌明治5年(1872年)に岩倉具視に従い欧州へ渡航、欧州各国の自治制度・議会制度などを研究。明治7年(1874年)には民撰議院設立建白書の提案者に名を連ねる。明治20年(1887年)に子爵に列せられ、同23年(1890年)に貴族院議員となった。
明治27年(1894年)3月、後に明治生命(明治安田生命の前身)に合併される有隣生命保険を京都に創立し、初代社長に就任した。
維新後、新政府では慶応4年(1868年)1月17日に内国事務総督、明治2年(1869年)5月15日民部官知事、同年7月8日民部卿、8月11日には大蔵卿を兼任。8月24日には大学別当・侍読に就任。同年9月26日に正二位に叙せられた。明治3年(1870年)に政務を退く。
明治14年(1881年)勲二等旭日重光章受章。明治21年(1888年)に従一位に叙せられ、翌年勲一等旭日大綬章を受章。明治23年(1890年)に小石川の自邸で死去、享年64。墓所は東京都品川区の補陀洛山海晏寺。死の翌年の明治24年(1890年)には佐佳枝廼社(越前東照宮)に春嶽の霊が合祀された。昭和18年(1943年)には春嶽を主祭神とする別格官幣社福井神社が創建された。
辞世の歌は、「なき数に よしや入るとも 天翔り 御代をまもらむ すめ國のため 」。