初心者用 くりっく365基本知識
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マーケットメーカー
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FX 初心者・松平直春の四男。正室は蜂須賀斉裕の娘(鷹司標子の養女)・賀代姫、継室は久我建通の娘・幸子、広橋胤保の娘。子に松平康荘(次男)、松平永頼(三男)、竹屋春光(四男)、藤波茂時、娘(鍋島直庸正室)、娘(加藤泰通正室)、娘(戸田康保正室)。
嘉永5年(1852年)4月1日、将軍徳川家慶に御目見する。嘉永6年(1853年)2月1日、元服する。安政4年(1857年)5月4日、実父直春の隠居により、糸魚川藩松平家の家督を相続する(この頃は直廉(なおきよ)と名乗る)。同年12月16日、従五位下日向守に叙任する。
日経225、福井藩松平家の家督を相続する。大老井伊直弼による安政の大獄で松平慶永が隠居・謹慎処分となったためである。同年11月21日、従四位上左中将・越前守に昇進する。また、徳川家茂から偏諱を受け、直廉から茂昭に改めた。
藩主となったものの、藩内には隠居した慶永をはじめ三岡八郎、中根雪江、横井小楠などの改革派の家老・藩士が多数いたため、茂昭には実権はほとんど無く、傀儡の当主の立場であった。慶応元年(1865年)の第一次長州征討では総督徳川慶勝(尾張藩主)の下、副総督となっている。
明治2年(1869年)6月、版籍奉還にともない、福井藩知事となった。明治4年7月、廃藩置県にともなって、免官された。明治17年7月、伯爵を授けられた。明治21年(1888年)1月、侯爵に昇爵する。
先物取引、55歳で死去した。
越前国に生まれる。嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵・杉田成卿に師事し蘭方医学を学んだ後、水戸藩の藤田東湖・薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)と交遊。他に梅田雲浜や横井小楠らと交流する。越前・福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩医や藩校・明道館学監心得となる。
安政4年(1857年)以降、由利公正らと幕政改革に参加。14代将軍を巡る安政の将軍継嗣問題では春嶽を助け、一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開した。幕政改革、幕藩体制は維持した上での西欧の先進技術の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派の思想を持ち、攘夷で揺れる幕末期では危険人物とされた。
安政6年(1859年)、春嶽が隠居謹慎処分に命ぜられた後、将軍継嗣問題に介入した事が問われ、南紀派で大老となった井伊直弼が発令した安政の大獄で小塚原刑場にて斬首された。享年26。
先物取引などのものとともに南千住回向院にある。戒名は景鄂院紫陵日輝居士。
越前国福井の城下に生まれる。天保元年(1830年)、家督を継ぎ、藩の儒学者に学ぶ。江戸に赴いて平田篤胤から国学を学んだ。天保9年(1838年)に松平慶永(春嶽)が藩主に就任すると御用掛となり、橋本左内らとともに藩政改革に参与する。
側用人として幕政に進出した慶永の参謀となり、嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が来航して通商を求めると、攘夷論者であった慶永に開国論を進言する。安政の大獄で慶永が失脚すると同時に失脚し、慶永が政界復帰して政事総裁職になると、横井小楠らと公武合体政策に従事し、将軍・徳川家茂の上洛に運動。万延元年(1860年)からは著作活動に専念し、慶永らの政治活動を著わした『昨夢紀事』を記している。
天保10年(1839年)3月1日、第10代藩主・細川斉護の三男として生まれる。幕末期においては、弟の長岡護美(若いときに喜連川藩主の養子となるが脱走)と共に上京して、松平慶永や松平容保らと共に公武合体に尽力した。また、藩主で兄の細川韶邦に代わって、細川内膳家の長岡忠顕らとともに朝廷との交渉役も務めたという。
慶応4年(1868年)1月、新政府より議定・刑法事務総督に任命される。明治2年(1869年)3月には参与に任命される。そして明治3年(1870年)5月8日、藩主で兄の韶邦が佐幕派で新政府との関係が悪かったため隠居となり、代わって護久が後を継いで藩知事となった。
護久は弟の長岡護美(細川護美)を重用し、藩の諸式・諸法律の改変、藩士のリストラや俸禄の削減、領民に対しての免税や封建制度の撤廃など、当時としてはかなり進歩的な藩政改革を行なった。一方で体制一新のため、はやくから新政府に廃藩を提言した。明治4年3月と同年5月の二度にわたって藩知事免職を願い出た。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官、同年に白川県(現・熊本県)知事となる。
明治17年(1884年)、華族令公布に伴って侯爵に叙される。明治26年(1893年)9月1日に死去。享年55。
王政復古で成立した明治新政府の参与として出仕するが、翌年に免職。福井で隠居し、著作活動を行う。71歳で死去。
福井藩士を務める家柄の子として生まれる。やがて福井藩の家老を務める本多氏の養子となり、嘉永2年(1849年)に家督を継いで藩主・松平慶永に仕えた。慶永の藩政改革のブレーンのひとりとして活動し、主に軍制改革で功績を挙げた。
安政の大獄で慶永が隠居した後は養子の松平直廉に仕え、第1次長州征伐では幕府軍の副総督となった直廉の軍事総奉行として小倉まで従軍した。明治時代に入ると再び慶永(春嶽)に仕え、側近として活動する。しかし老齢を理由にやがて隠棲した。
450石取りの藩士として松平慶永に仕えた。橋本左内とは親友であり、共に幕末の政情不安の中で国事に語り合うことが多かった。1853年、ペリーが来航すると武者修行と称して江戸に向かい、情勢を探った。1856年には慶永の命令で熊本藩の横井小楠招聘に赴いている。1858年、将軍継嗣問題が起こると、左内と共に一橋派に与して徳川慶喜擁立のために京都で交渉に尽力した。
その後は禁門の変、戊辰戦争などに参加し、慶永の補佐に務めた。維新後は岐阜県令や内務大丞兼警保を務めた。1899年、79歳で死去。
肥後宇土藩主・細川立之の長男。母は土井利厚の娘。正室は浅野斉賢の娘。子に細川慶前(長男)、細川韶邦(次男)、細川護久(三男)、津軽承昭(四男)、長岡護美(六男、熊本藩執政)、娘(越前松平慶永正室)。幼名は与松。宇土藩主時代は立政と名乗る。官位は従四位下、中務少輔、越中守、左近衛権中将。侍従。
父の後を継いで宇土藩主となっていたが、文政9年(1826年)に叔父で第9代藩主・細川斉樹の養嗣子となって本家の家督を継いだ。この時、名を立政から斉護に改め、宇土藩主は弟の細川行芬が継いでいる。
当時、熊本藩では代々の藩主による出費などで、すでに80万両という膨大な借金を抱え、財政は破綻寸前となっていた。しかもこのような中で、アメリカやイギリスなどの日本接近もあって、幕府から天草地方や相模湾警備を命じられ、その出費で財政はさらに悪化した。このため、斉護は財政再建のために藩政改革に取りかかるが、重臣の横井小楠と松井佐渡が藩政改革の方針をめぐって対立し、かえって藩内が二分されてしまった。このような混乱と苦悩の中での万延元年(1860年)、斉護は57歳で死去したのである。後を次男・韶邦(慶順)が継いだ。
第10代藩主・細川斉護の次男。母は比企氏。細川護久の兄。正室は一条忠香の養女(三条実万の娘)。官位は正四位、越中守、左中将。幼名は訓三郎、六之助。初名は護順、慶順。
嘉永元年(1848年)に兄の細川慶前が早世したため、父斉護の嫡子となる。万延元年(1860年)7月12日、父・斉護の死去により、家督を相続する。同年8月21日、左少将に任官する。元治元年(1864年)4月11日、従四位上に昇進する。同年4月15日、左中将に任官する。
尊皇攘夷には消極的な人物で、文久2年(1862年)に肥後勤王党が分裂したのを契機として藩論を尊王論に統一した。慶応2年(1866年)、長州藩の高杉晋作が小倉藩を攻撃したとき、小倉藩側に与して戦ったが、隣国の薩摩藩などの動向が気にかかることもあって、わずかに戦って敗れた後、即座に撤退している。
慶応4年(1868年)4月23日、新政府側に与する意思を示すため、実名を慶順から韶邦に改めた。「慶順」は第12代将軍・徳川家慶から一字を賜ったものであり、それを返上したのである。
明治2年6月17日、版籍奉還にともない、熊本藩知事となった。明治3年(1870年)5月8日、隠居し、弟で養子の細川護久に家督を譲った。同年5月13日、正四位に昇進する。明治9年(1876年)10月23日、42歳で死去した。
天保元年(1831年)家老見習いとして出仕し、天保3年(1833年)父が亡くなると1万5000石の所領を襲封し、藩家老となって江戸藩邸で藩主細川斉護に仕えた。横井小楠や下津久馬と共に協力して藩政改革に取り組み、文武芸倡方として藩校の時習館改革などに尽力し、荻昌国・元田永孚らを加えて会読会を開き、実学党と呼ばれる一派を形成した。しかし改革に反対する保守派である学校派の家老松井佐渡の反対を受け挫折。弘化4年(1847年)親しくしていた水戸藩主徳川斉昭が隠居させられると、それによって是容も家老職を辞職させられた。嘉永6年(1853年)ペリー再来航を契機として家老職に復帰を許され、浦賀の守備隊長として江戸詰を任じられた。また江戸では斉昭や藤田東湖、吉田松蔭、西郷隆盛らと盛んに交流した。しかし攘夷論者であったため、安政2年(1855年)開国論を唱えて沼津山派(新民派)を形成した友人の小楠と対立し、自らは坪井派(明徳派)を形成して対抗し、かえって熊本藩にさらなる混乱の種を生んでしまった。安政6年(1859年)引退先の采邑八代で死去。