初心者用 くりっく365基本知識
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約定
取引が成立することです。
外国為替は専制的な人物であったが、その反面で文化人としても優れ、歴史・文学・医学の多方面において当時のことにおいて編纂を命じ、「丹鶴文庫」という蔵書を作り上げている。なお、新宮藩が大名に取り立てられるのは、彼の後を継いだ忠幹の時代における「維新立藩」でのことであった。
第9代当主・水野忠央の長男。正室は水野忠邦の娘、継室は水野忠邦の養女(戸田忠温の娘)、継々室は三宅康直の娘。子は水野忠宣(長男、八甲田雪中行軍遭難事件で死去)、水野直(五男)、片桐貞央(六男)、水野忠武(七男)、水野重吉(八男)、娘(森英室)、娘(川口武和室)、娘(水野敏勝室)。官位は従五位下・大炊頭。
万延元年(1860年)6月、父の忠央は強制隠居処分となったため、その後を継いで紀伊藩藩主・徳川茂承を補佐した。策謀家・専制的であった父と違って謹厳実直だった上、度量も広かったので、周囲から人望を集めたと言われている。
慶応2年(1866年)、第2次長州征伐では幕府軍の先鋒を務めて、各地で幕府軍が敗れる中で忠幹が率いる軍勢だけは安芸国佐伯郡大野村まで進撃するという大戦果を挙げた。幕府軍が撤退する中では殿軍を務め、長州藩の軍勢もその忠幹の武勇を恐れて追撃できず、「鬼水野」と畏怖し、あるいは賞賛したと言われている。
FX、戊辰戦争が起こると紀伊藩は御三家の一つであったことから幕府側につくとして新政府側から疑われた。このため忠幹は自ら上洛して必死に弁護し、紀伊藩の存続を実現したのである。同年、新政府の「維新立藩」により、忠幹は3万5000石の大名として認められ、新宮藩を立藩している。
明治35年(1902年)、65歳で死去した。法号は真徳院殿忠幹日現大居士。墓所は神奈川県鎌倉市の高松寺。
西条藩士・小川武貴の長男として生まれ、幼名を光太郎又は五助と名乗る。江戸の昌平坂学問所で学ぶ。一時、尊皇攘夷派志士として活動していたと言われる。
後に三浦家の養子となり、三浦休太郎を名乗った。また、内田敬之助の変名も用いている。
FXに関して徳川家茂を支持し能力を認められ、主家である紀州藩に取り立てられる。
1844年8月20日、紀州藩藩士伊達宗広(伊達千広とも)と政子(渥美氏)の六男として生まれる。幼名は牛麿(うしまろ)。生家は伊達騒動で知られる、伊達政宗の末子・伊達兵部宗勝の後裔と伝えられるが、実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫。伊達小二郎、陸奥陽之助と称する。国学者・歴史家としても知られていた父の影響で尊王攘夷思想を持つようになる。父は紀州藩に仕え財政再建をなした重臣であったが、宗光が8歳のとき(1852年)藩内の政争にやぶれて失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活がおとずれた。
若き日の陸奥宗光安政5年(1858年)、江戸に出て安井息軒、水本成美に学び、土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。
文久3年(1863年)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867年)には坂本龍馬の海援隊に 加わるなど始終坂本と行動をともにした。勝海舟と坂本の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だ けだ」と言わしめるほどだったという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める 彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」だと絶賛している。
FX、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。
明治維新後は外国事務局御用係[1](1868年)、兵庫県知事(1869年)、神奈川県令(1871年)、地租改正局長(1872年)などを歴任するが、薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞した。この間、明治5年(1872年)に蓮子夫人が亡くなり、翌年に亮子と結婚している。大阪会議(1875年)で政府と民権派が妥協し、その一環で設置された元老院議官となる。
明治10年(1877年)の西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆[2]を謀ったが、陸奥は土佐派と連絡[3]を取り合っていた。翌年にこのことが発覚し、除族のうえ禁錮5年の刑を受け、投獄された。
山形監獄に収容された陸奥は、せっせと妻亮子に手紙を書く一方で、自著をあらわし、イギリスの功利主義哲学者ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。出獄ののちの1883年にベンサムの『Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)』は『利学正宗』の名で刊行されている。山形監獄が火災にあったとき、陸奥焼死の誤報が流れたが、誤報であることがわかると、1878年伊藤博文が手を尽くして当時もっとも施設の整っていた宮城監獄に移させた。
明治16年(1883年)1月、特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。1884年にロンドンに到着した陸奥は、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。ロンドンで陸奥が書いたノートが今も7冊残されている。内閣制度の仕組みはどのようなものか、議会はどのように運営されていのか、民主政治の先進国イギリスが、長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々をさかんに吸収したあとがみられる。また、ウィーンではシュタインの国家学を学んだ。
明治19年(1886年)2月に帰国し、10月には外務省に出仕した。明治21年(1888年)、駐米公使となり、同年、駐米公使兼駐メキシコ公使として、メキシコ合衆国との間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。
帰国後、山縣有朋内閣の農商務大臣に就任。明治23年(1890年)、大臣在任中に第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第1区から出馬し初当選を果たし、1期を務めた。閣僚中、唯一の衆議院議員であった。陸奥の入閣には農商務大臣としてより、むしろ第一回帝国議会の円滑な進行(今でいう国会対策)が期待された。実際にかつて部下であった自由党の実力者星亨とは終生親交が厚く、このつながりが議会対策に役立っている。なお、このとき農商務大臣秘書であったのが腹心原敬である。陸奥の死後、同志であった西園寺・星・原が伊藤を擁して立憲政友会を旗揚げすることになる。
明治24年(1891年)に足尾銅山鉱毒事件をめぐり、帝国議会で田中正造から質問主意書を受けるが、質問の趣旨がわからないと回答を出す(二男潤吉は足尾銅山の経営者、古河市兵衛の養子であった)。同年5月成立した松方正義内閣に留任し、内閣規約を提案、みずから政務部長となったが薩摩派との衝突で辞任した。11月、後藤象二郎や大江卓、岡崎邦輔の協力をえて日刊新聞『寸鉄』を発刊し、みずからも列する松方内閣を批判、明治25年(1892年)3月、辞職して枢密院顧問官となる。
その後、第2次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任[4]。 明治27年(1894年)、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結[5]。 幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功する。以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正した。陸奥が外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成し遂げた。 同年8月、子爵を叙爵する。
一方、同年5月に朝鮮で甲午農民戦争がはじまると清国の出兵に対抗して派兵、7月23日朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、25日には豊島沖海戦により日清戦争を開始、イギリス、ロシアの中立化にも成功した。この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる川上操六参謀次長の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。
戦勝後は伊藤博文とともに[6]全権として明治28年(1895年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。日清戦争の功により、伯爵に陞爵する。
これ以前より陸奥は肺結核を患っており、三国干渉が到来したとき、この難題をめぐって閣議がおこなわれたのは、すでに兵庫県舞子で療養生活に入っていた陸奥の病床においてであった。明治29年(1896年)、外務大臣を辞し、大磯の別邸[7]やハワイにて療養生活を送る。このあいだ、雑誌『世界之日本』を発刊している。
明治30年(1897年)8月24日、肺結核のため西ヶ原の本邸(旧古河庭園)にて死去[8]。享年54(満53歳没)。墓所は鎌倉の寿福寺。