初心者用 くりっく365基本知識
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四本値
始値(その取引日で始めについた価格)、高値(その取引日で最も高い価格)、安値(その取引日で最も安い価格)、終値(その取引日で最後についた価格)の4つの価格のことです。
商品先物取引から執筆を開始した「蹇々録(けんけんろく)」は、日清戦争、三国干渉の処理について記述したもので、外務省の機密文書を引用しているため長く非公開とされ、1929年に初めて公刊された。明治外交史上の第一級史料である。岩波文庫ワイド版が読み易い。
1952年(昭和27年)、陸奥家は国立国会図書館に書翰と書類を寄贈している。陸奥宛書簡は伊藤博文、三条実美、山縣有朋等の主要政治家60人以上にのぼり、書類は外交関係がほとんどを占める。
若かりし頃の陸奥は、雑踏の中を他人とぶつかることなくすり抜けることに長けていたといわれている。
後妻の陸奥亮子は「鹿鳴館の華」「在米公使館の華」と呼ばれた美貌の女性である。
陸奥宗光が、藩閥打倒、議会民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺公望は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが…」と言って、周囲の見る目も痛わしいほど落胆したという。
陸奥の言葉…「政治はアートなり。サイエンスにあらず。巧みに政治を行い、巧みに人心を治めるのは、実学を持ち、広く世の中のことに習熟している人ができるのである。決して、机上の空論をもてあそぶ人間ではない」
坂本龍馬が船中八策を西郷隆盛に提示した際、「わしは世界の海援隊をやります」と発言した場に同席し非常な感銘を受け、後世ことあるごとに回想を語ったとされている。しかしこれは西郷と龍馬のやりとりも含めた後世の創作らしい。
文政8年(1825年)10月5日、筑後久留米藩の第9代藩主・有馬頼徳の六男として江戸で生まれる。天保10年(1839年)に津和野藩の第10代藩主・亀井茲方の養子となり、6月21日の隠居により、家督を継いで第11代藩主となる。天保11年(1840年)2月に従五位下・隠岐守に叙位・任官する。
投資信託、宿老の多胡丹波を隠居させて藩政の実権を握ると、岡熊臣を登用して学問を奨励し、さらに江戸深川にある下屋敷を売却するなどして得た1万両を学問関係に投資するなど、学問発展に寄与した。万延元年(1860年)に従四位下に昇叙する。
幕末期は長州藩の隣藩だったことから、佐幕派と尊王派の間を苦慮した形となり、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐には消極的な立場をとり、幕府軍が撤退すると幕府が目付として残していた長谷川久三郎を長州藩に引き渡して和睦している。その後は次第に長州藩寄りとなり、慶応4年(1868年)1月には新政府の参与に任じられ、以後は教育関係に秀でた手腕を持っていたことから、神祇事務局判事・議定職神祇事務局輔・神祇官副知事などを歴任し、宗教関係の行政を主に任されることとなった。
外貨預金、版籍奉還により津和野藩知事に任じられ、従四位上に昇叙する。明治3年(1870年)には正四位に昇叙され、明治4年(1871年)には従三位に昇叙された。なお、諸藩に先立って6月25日に廃藩置県により藩知事を免官された。
明治9年(1876年)、家督を養子の亀井茲明に譲って隠居する。明治14年(1881年)には勲三等・旭日中綬章を授与された。明治18年(1885年)3月18日、東京の小石川邸で死去した。享年61。
大国 隆正(おおくに たかまさ、寛政4年11月29日(1793年1月11日) - 明治4年8月17日(1871年10月1日))は、幕末・明治維新期の国学者・神道家。父は石見津和野藩士の今井秀馨。別姓は野之口。号は佐紀乃屋。字は子蝶。はじめ秀文、また秀清。 江戸桜田津和野藩邸に生まれた。
CFDの門にはいって国学をまなんだ。昌平黌で古賀精里に儒学を、増山正賢に絵画を、菊池五山に詩を学ぶ。7年昌平黌を去って藩邸にかえって江戸の文人墨客とまじわった。本居宣長が音韻学に精通するときいてその門人である村田春門に国学・音韻学をまなんだ。14年家をついだ。
1818年(文政元年)に長崎へ行き遊学、そこで蘭学を吉尾権之助にまなび、あわせて梵学を修学。「たてそむる志たにたゆますは龍のあきとの玉もとるへし」とはこのころの作である。これからは文人墨客とのまじわりをたってもっぱら神代の古事、五十音図にかんする諸書を研究し、「古伝通解」「矮屋一家言」の稿をおこした。 11年藩の大納戸武具役となったがたまたま同僚の大津なにがしが私を謀っているのにいきどおり、藩を脱走した。天保2年父は死去。のち家道はおとろえ、また火災にあい、著書、器財ことごとくうしなった。単身、大阪におもむき、その日記が「歌日記」である。いらい国学を京都、摂津で講じて、本教本学と称した。天保7年播磨小野藩主一柳にまねかれ、帰正館を起こして、藩の子弟を教育した。小野藩には5年間いたが、辞して京都にすまい、報本学会で教授した。嘉永元年姫路藩にまねかれ、国典を和学校好古堂で講じた。また福山藩主阿部にまねかれ、老臣以下ついてまなぶものおおかった。
不動産投資をおおいにとなえ、尚武の国体を講明し、名声とみに関西の学会にふるった。
たまたま一書「倭魂」を著わして幕府の忌諱にふれ、罪を得ようとしたが、かつて知遇をえた水戸斉昭によって讒にことなきをえたのである。
3年1月14日関白鷹司政通に謁し、いらいその門にでいりして皇典を講じて皇室復興を説いた。4年9月15日津和野藩主亀井?監はその学識を嘉して藩籍に復せしめ、5人扶持を給して、藩黌養老館国学教師とした。
以降、播磨小野藩・姫路藩や、津和野藩、備後福山藩などの藩校で国学を講義した。大国は、国学という名称の妥当ならあるを弁じ、姫路藩の好古堂、小野藩の帰正館、津和野藩の養老館、いずれにおいても国学の称はもちいず、本学と称した。これは「古事記」奏上序に、本教神理とあるによる。
嘉永6年、ペリー来航に、大国は「文武虚実論」6巻をあらわし、そのなかで、海防のかなめは虚文虚武をしりぞけて、実文実武をつとめるにあると論じ、和魂を鞏固にしてもってわが国を宇内に冠絶させるべきであるとした。
安政2年、「本学学要」2巻を著わし、わが国が宇内万国に卓絶するゆえんをのべ、天壤無窮の皇位は世界万国に君臨すべき神理があると説いた。 明治元年徴士となった。 明治維新後、神祇事務局権判事になる。
しかし老齢劇職にたえざるの故を以て辞して、神祇局の諮問役になった。
門人に玉松操や福羽美静ら多数。
大政復古のとき、神武創業に基くの大号令が発せられたが、これは岩倉具視の客、玉松操の献議によるものであって、玉松はすなわち大国の門人であり、そのしたしく聞くところをもって公けに説き、この議がついに王政の主眼となったのであるという。
大正天皇御大典にあたって大正4年11月従四位をおくられた。
津和野藩士福羽美質の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)、19歳で藩校・養老館に入学。津和野藩主亀井茲監の命を受け、嘉永6年(1853年)京都に上り、大国隆正の門に入る。この際に国学思想の影響を受けて尊皇攘夷論に関心を抱き、次第に意を国事に用いるようになったとされている。安政4年(1857年)に帰藩し、養老館で教授を務める。文久3年(1863年)、御所に召され孝明天皇に近侍する。八月十八日の政変に際しては、七卿と共に西下し帰藩、藩主亀井に認められ、藩政刷新に尽くすところがあった。
慶応2年(1866年)の第二次長州征伐時には、藩の方針を長州藩寄りにまとめた。そして明治元年(1868年)、茲監が明治維新政府神祇官の要職につくに及び、微士神祇事務局権判事となり、主に神祇制度確立に尽力した。
明治2年(1869年)には明治天皇の侍講、明治3年(1870年)に神祇大福、明治5年(1872年)に教部大輔となるが、「外国の長所を取り入れるべきだ」との意見に反対意見が続出したため免官され、宮内省歌道文学御用掛となる。
明治9年(1876年)に国憲調査委員、明治12年(1879年)に東京学士会会員、明治18年(1885年)に元老院議官となり、明治20年(1887年)には子爵を授爵。明治23年(1890年)、貴族院議員に選出される。同年、公職を退いて隠居生活に入った。
園芸・造園家・宮中顧問官の 福羽逸人 農学博士(子爵)は、養嗣子にあたる。
幼少の頃に軽業(かるわざ、曲芸のこと)師の真似をしようとして綱渡りをした際に誤って転落、腰部の関節を挫傷した為に身長が伸びなかった。大人になっても5尺(約151.5cm)に満たなかったといわれる。しかし、父の友人から諭され、また荒木田守武の和歌に感銘を受けるなどして勉学に励んだ。
明治天皇が京都より東京へ行幸(東京奠都)する際、伊勢神宮より早馬が到着して「神宮の鳥居が倒れた、御神意は天皇の行幸に反対なのでは」という連絡を受けたが、福羽は「人が作ったものなら倒れるのも当然じゃないか」と相手にしなかった。他の国学者、神祇官僚とは一線を画した福羽の合理的精神の一端と言われる。