初心者用 くりっく365基本知識
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株の六男。幼名は良之助。嘉永3年(1850年)5月、喜連川藩主・喜連川煕氏の養子となり金王丸と称した。安政3年(1856年)4月に元服し、喜連川紀氏と名乗った。官位は左兵衛督。しかし、安政5年(1858年)4月、喜連川家を離籍し、実家の熊本に戻った。
明治元年(1868年)3月、明治新政府の参与に就任する。同月、従五位下左京亮、同年閏4月、従四位下侍従に昇進する。明治3年(1870年)、熊本藩知事細川護久に重用されて、大参事に就任する。藩の諸式・諸法律の改変、藩士のリストラや俸禄の削減、領民に対しての免税や封建制度の撤廃など当時としてはかなり進歩的な藩政改革を行なった。
株から明治12年(1879年)まで、欧米に留学する。帰国後、旧熊本藩細川家から分家し、華族に加えられる。明治13年(1880年)、外務省に入省してベルギーやオランダの公使、明治15年(1882年)、元老院議官には就任する。明治17年(1884年)7月8日、男爵。明治23年(1890年)7月から翌年10月、明治30年(1897年)7月から明治39年(1906年)4月まで貴族院議員をつとめた。明治24年(1891年)4月23日には子爵に陞爵。
文化6年(1809年)、肥後熊本(現在の熊本県)に、熊本藩藩士の次男として生まれる。「小楠」は、彼が使った号の一つ。諱は「時存」(「ときひろ」「ときあり」)であり、正式な名のりは平時存(たいら の ときひろ/ときあり)。通称は「平四郎」で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。
横井家は桓武平氏北条氏嫡流得宗家に発する。北条高時の遺児北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住し、時行4世孫にあたる横江時利の子が、横井に改めたのがはじまり。時利の子は横井時永といい、その子孫は時勝、時延、時泰、時安---と続いた。北条氏の
ipo(しじけん)を開き、多くの門弟を輩出した。また、坂本龍馬や井上毅など、明治維新の立役者やのちの明治新政府の中枢の多くもここを訪問している。
松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには幕府の政事総裁職であった春嶽の助言者として幕政改革にかかわる。
慶応4年(1868年)新政府に参与として出仕するが、翌年参内の帰途、十津川郷士らにより、京都市中京区寺町丸太町下ル東側(寺町通り)で暗殺される。享年61。殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったと言われている。しかも弾正台の古賀十郎ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が裁判において横井が書いたとする『天道覚明書』という偽書を作成して横井が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥った。紆余曲折の末、実行者であった十津川郷士ら4名が明治3年に処刑される事となった。
個人向け国債、30歳の時、熊本藩親兵選抜で宮部鼎蔵らと同格の幹部に推される。一般的に「人斬り彦斎」などと呼ばれているが、彦斎が斬った人物で確実なのは佐久間象山だけで、後はいつ誰を何人斬ったのかは明確に伝わっていない。容姿は、身の丈5尺前後(150cmほど)と小柄で色白であった為、一見女性の様であったという。剣は我流で、片手抜刀の達人(片膝が地面に着くほど低い姿勢からの逆袈裟斬り)であったと伝えられている。
伯耆流居合を修行したという説もあるが、その根拠となっているのは、当時、熊本藩で最も盛んだった居合が伯耆流だったという事と、所作こそ異なれど伯耆流には逆袈裟斬りの業が多い点が、その理由として挙げられている。 白昼堂々と佐久間象山暗殺に及んだ以外は、目撃者や、その形跡を全く残さない事からも幕末四大人斬りの中で最も恐れられている[要出典]。
資産運用の政変後、長州へ。長州では、三条実美の警護を務める。元治元年6月の池田屋騒動で新選組に討たれた宮部鼎蔵の仇を討つべく再び京へ向かう。元治元年7月11日、公武合体派で開国論者の重鎮、佐久間象山を斬る。この象山暗殺以降、彦斎は人斬りを行なっていない。
第二次長州征伐の時、長州軍に参戦。長州軍は勝利を上げる。慶応3年に帰藩するが、熊本藩は佐幕派が実権を握っていた為投獄される。このため、大政奉還、王政復古、鳥羽伏見の戦いの時期は獄舎で過ごす。慶応4年2月出獄。佐幕派であった熊本藩は、彦斎を利用して維新の波にうまく乗ろうとするが彦斎は協力を断る。
維新後、開国政策へと走る新政府は、あくまでも攘夷を掲げる彦斎を恐れた。二卿事件への関与の疑いをかけられ、続いて参議広沢真臣暗殺の疑いをかけられ明治4年12月斬首。しかし、この暗殺事件に彦斎は無関係といわれ新政府の方針に従わなかった為の斬首とみられる。
辞世の歌は、
君が為め 死ぬる骸に 草むさば 赤き心の 花や咲くらん
君を思い君の御法に死ぬる身を ゆめ見こりなそつくせ世の人
かねてよりなき身と知れど君が世を 思う心ぞ世に残りける
戒名を『應観法性居士』 墓は池上本門寺。 東京の二箇所に墓があるという話もあるが、東海寺の少林院にあった墓を本門寺に移されたとも思われる。 また、京都の妙法院と熊本の桜山神社に仮墓が一つずつある。
鎖国体制・幕藩体制を批判し、それに代わり得るあたらしい国家と社会の構想を「公共」と「交易」の立場から模索した。
小楠は、「公共」性・「公共」圏を実現するために、「講習討論」「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を政治運営のもっとも重要な営為として重視した。また、「交易」を重視する立場から、外国との通商貿易をすすめ、産業の振興をも「交易」として捉えて国内における自律的な経済発展の方策を建議し、そのために幕府・藩を越えた統一国家の必要性を説いた。
体系的に小楠の国家論が提示された文書として、万延元年(1860年)に越前福井藩の藩政改革のために執筆された「国是三論」がある。そのほか、学問と政治のむすびつきを論じた嘉永5年(1852年)執筆の「学校問答書」、ペリーやプチャーチンへの対応についての意見書である嘉永6年(1853年)執筆の「夷虜応接大意」、元治元年(1864年)の井上毅との対話の記録「沼山対話」、慶応元年(1865年)の元田永孚との対話の記録「沼山閑話」などがある。
共和制(大統領制)の事を「尭舜の世(禅譲)」と評した事でも知られる。
文化11年(1814年)10月1日、水野忠啓の嫡男として生まれる。幼名は健吉。通称は藤四郎。天保6年(1835年)、家督を継いで当主となり、紀州藩主たちを補佐した。
嘉永2年(1849年)、徳川斉彊が死去してわずか4歳の幼児・徳川慶福が藩主になると、忠央はこれを補佐することとなった。この頃、紀伊藩では第10代藩主だった徳川治寶が隠居中ながらまだ存命していたため、実権は治寶が掌握していたのだが、治寶が嘉永5年(1852年)に死去すると、忠央は藩の主導権を掌握して専制的な政治を行なったため、周囲からの批判を浴びたと言われている。どうもこれには、忠央が幕政に参与し、3万5000石という石高を領していながら新宮藩が大名として認められていなかったため、これを大名に昇格させようという野望があったためと言われている。
第13代将軍・徳川家定は病弱な上、嗣子が無かったため、次の将軍位をめぐって徳川斉昭の子・徳川慶喜の一橋派と、慶福を擁立する南紀派に分かれて、それぞれが対立することとなった。忠央は井伊直弼と手を結んで慶福を推し、安政4年(1857年)に幕府で隠然たる勢力を持っていた阿部正弘が死去すると、大奥とも手を結んで正弘の死の翌年、慶福を徳川家茂として第14代将軍に擁立したのである。
慶応3年(1867年)4月、いろは丸沈没事件が起こり紀州藩代表として海援隊代表・坂本龍馬と交渉したが、国際法を用いられて敗れ多額の賠償金(8万3000両)を支払う結果となってしまう。そんな折り、坂本が京都近江屋で暗殺され、賠償問題で恨みがあったとされる三浦が海援隊士に容疑者として狙われることとなった。三浦は新選組に身辺警護を依頼し、天満屋事件へと発展。顔面を負傷したものの命に別状は無かった。
戊辰戦争が勃発すると、一時捕縛されたが間もなく釈放されて明治政府に出仕。
維新後は諱である安(やすし)を名乗る。また香瀾という雅号もあった。
明治政府に入ってからは大蔵省官吏、元老院議官、貴族院議員、第13代東京府知事、宮中顧問官などを歴任した。
明治43年に死去。享年81。墓所は東京都豊島区妙行寺にある。
しかし安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、一橋派や反井伊派が勢力を盛り返したため、直弼の与党であった忠央も同年6月に失脚した上、家督を嫡男の忠幹に譲って強制的に隠居することを命じられた。そして以後は政界に二度と復帰することなく(ただし、隠居謹慎処分は元治元年(1864年)に解かれた)、慶応元年(1865年)2月25日に死去した。享年52(満50歳没)。法号は鶴峯院殿前土州太守篤勤日精大居士。墓所は和歌山県新宮市の橋本山。